2016.08.12
あぁゆるカフェイベント情報の拡散 \^ ^/

あぁゆるカフェイベント記事をご紹介して頂きました。
Comfy-livingさまのブログ
関東でご活躍されているインテリア教室の弘瀬先生のブログです。
強化ダンボール家具の記事もご紹介頂きました。
感謝です!こうゆう風に良い情報はどんどん広がっていけば嬉しいですね。
あぁゆるカフェの素晴らしいイベント情報。記録に残し画像配信できるようになれば良いですね!きっと多くの人達の救済に繋がるように思います。

2016.02.18
高齢者施設における手掛けの意味!

先日の朝、高齢者施設お伊勢茶屋の理事長さんから電話を頂いた。
東京から施設見学にこられるポスピス研究者Yさんと会わせたいので施設まで来るようにと連絡だ。
外部からもやはりこの施設は特別に映るようだ。
Yさんは他の施設には真似のできない施設だと言われた。
現在の介護施設様式は欧米の施設を真似て造られたもので、畳敷や杉の無垢縁甲板で裸足での日本的な生活を基本としたものはあり得ないらしい。欧米的考えからフロアに座ると言う行為は人の尊厳を損なう事になると言う。
この施設のメインとなるコミュニティ空間は畳と杉の縁甲板でおまけに堀コタツまで造ってある。廊下の床も杉の無垢縁甲板で造られていて、トイレや水回りまでいざって行ける構造となっている。其処に手摺は無い。
手摺では無くて手掛けがある。手掛けは壁沿いに見付け30ミリの幅で出っ張りが出ているもの。手摺を掴むのでは無くて手掛けに指を掛けるのである。
不思議なのは手摺を握り締めると背中が曲がるが、手を開いて手掛けに指を掛けて下方向へ体重を掛けると背中は伸びてくる。
身体が麻痺状態になると手は開き難くなるようだが、手の平を開いて指を伸ばすと腕から背中へ向かって身体が芯がシャンと伸びてくるような気持ちになるから面白い。
この様な仕掛けは、永年介護の仕事に対し問題意識を持って従事しながら考えて行かないと解り得ない事かも知れない。普通の施設であれば、誰もが何の疑いも無く手摺を建物の至る所に張り巡らせてしまう。
手摺には十分な強度も必要な為、安い物では無くかなり高価な設備でもある。
次回へと続く!

2016.01.10
レポート3■終末ケア!

終わり良ければ全て良し。人生の全てが報われる終末ケア。
どんな事業や仕事でも様々な困難を乗越えた後に結果を残す事ができたとする。最後にこれで良かったと思えた瞬間、充実感と満足感に満たされる。それは過去を振り返り悔いの無いとても幸せな人生だったと断定できる。
人生の最後に充実感と満足感で満たされるのは一番必要な事。
そんな風に満たされた幸福な死を迎えるためのお手伝いをすること、それが「終末ケア」ではないだろうか。
終末ケアに携わるには、人に優しく寄添ってあげられる大きな心が必要だ。終末ケアの現場はケアスタッフの人達にとっては、人間としての修錬の場でもあるように思った。
人は基本、とても我が儘である。其々の長い人生を歩んで来られた諸先輩達には、身体が弱っていても長い間に培われた価値観や信念、其の人それぞれに人としての大きな尊厳がある。
病院からここの施設へ運ばれた時、長い入院生活で体力も落ち痴呆も進んだ施設利用者は多い。環境も変わりスタッフが幾ら話し掛けても返事も返って来ないような人、そんな利用者が、ある時突然「部屋が暑い!」とか「喉が乾く、水が欲しい!」とかスタッフに怒られる瞬間が来ると言う。それは元気になられた証拠なのだそうで施設のスタッフみんなで喜ばれるのだそうだ。
施設利用者の手摺代わりになる介護スタッフは、移動の際、利用者の手を引きながら向かい合わせで声を掛ける。また足裏マッサージをスタッフが施設利用者に対し日課で施されてるが、それは利用者に対する情報収集のための大切なコミュニケーションタイムだと言う。
時に利用者から頭をこずかれたり、怒られたりされているスタッフ達。彼女達は、利用者の人生最後を最高のものにする為の協力者なのである。誠心誠意の心のこもったケアの後には「心の底から、ありがとう」と涙して感謝される瞬間があるようだ。それはスタッフ達にとって、心も身体も苛酷な職場が最高の喜びのある職場へと変貌する瞬間なのである。
驚いた事に痴呆の進んだ人でも、この施設ではスタッフ達の施設利用者に対する"心に寄り添った介護"により、殆どの人が快復に向かうときいた。
次回へ続く!暫く間を空けます。
2016.01.09
レポート2■介護保険制度の役割とは?

レポート2■介護施設の介護保険の役割とは?
昨年の秋、私どものオフィスで携わり竣工した某社会福祉法人の介護施設がある。
その組織は施設利用対象者に対し自立支援を行われている。
要介護度4や5の人達に対し、施設内では車椅子から降ろし、オムツや胃瘻を外し、毎日屋外へ連れ出し、自力でトイレや食事が出来るようになるまで手間暇を掛け組織総力を挙げて取り組んでおられる。
頭が下がる大変な介護労力、その見返りは介護度が下がった利用者へのご褒美として介護保険料金の大幅な減額となって帰ってくる。
この組織は、経営的にはとても不味いやり方なのに長い間その理念を持続され続けておられるのには驚きだ。
そのようなマゾヒリズム的経営を支えているのは、そこで働いておられるスタッフや、そこでお世話になられた利用者本人そして、そのご家族や親類等からの絶大なる支持と信頼に依るものだった。
そこで働かれているスタッフはご自分の家族や親戚を必ずと言っていいほどにその施設へ預けられる。関係者は他所の施設の事もご存知なので、スタッフを含めほぼ全員が家族ぐるみでお世話になられているのだ。
私が今迄に携わってきた施設が目指していたのは、高級リゾートホテルそのものだったような気がする。
施設の居室にはテレビも冷蔵庫もトイレもシャワー室まで完備していて、大きめのリクライニングベットと側には照明やテレビのリモコンが置かれたベットサイドテーブルが有る。
そこではトイレに立つ以外は眺めの良い部屋のベットの上で一日中過ごせる。リゾートホテルのように、とても快適で便利で極楽のような空間だ。
しかしながらその居室前の廊下の先にある扉には鍵が掛かっていて、自由に外に出れないようオートロックが施されている。それは痴呆対策である。
殆どの施設や病院では不眠対策の為、睡眠薬を沢山処方される。
医学的な事は判らないが、睡眠薬は高齢者にとって脳の働きを鈍らせる働きがあると聞いた事がある。睡眠薬を毎日飲み続け、一日中ベットの上でテレビを見ていたら、痴呆の症状が現れる人が出てくるかも知れない。それは自己責任に依るのかも知れないが、事故に結び付くとそれは施設側の責任となる。
施設の何処の場所に行ってもフルフラットでバリアフリー、彼方此方に手摺が設置され、明るくサインも大きめで判りやすい。
ある所では温泉まで掘り、各階に大浴場まで完備した。屋外には足湯を設置。車椅子のまま入れる様に造ったことで、実際に車椅子の高齢者の方が毎日のように足湯に浸かっておられ、これは良かったと思った。
この様な施設こそが、現在考えられる最高で理想の介護施設だと思い疑わなかった。
私も最後はこんな施設にお世話になりたい。心からそう思っていた。
しかし良く考えてみると、何処に行っても階段の無いフルフラットの1ミリも段差の無い平坦なフロアー。膝を上げる必要が無い所で毎日生活していると膝を曲げる機能はあっという間に退化してしまう。
毎日居心地の良い部屋のベットから動かずにいたら直ぐに歩けなくなってしまう。
何も考える必要もなく毎日テレビばかり見る生活、それに毎晩睡眠薬で眠っていたら、脳の機能も使っている現在でさえ危ういのに、あっという間に脳は腐ってしまいそうだ。
そんな事を教えてくれたのが一昨年、出会う事のできた某社福の女性理事長さんだった。
次回へと続く。

2016.01.07
死の質について2

このようなテーマになると、必ずと言っていいほど宗教的な思惑が絡んでくる場合が多いものだ。私の場合、人一倍霊を感じない人間で未だ嘗て霊もUFOも見た事も無いし感じた事すら無い。神の声など全く聴こえない程そちらの方面ではとても鈍感で使い物にならない人なのである。ここでは宗教的思惑や何かに利害を及ぼすような下心等、残念ながら皆無である事を先ずは断っておく。
人が幸福感を持ったまま人生を全うする為に幾つかの条件が思い浮かぶ。
一つは人としての尊厳を最後まで持てる環境にあるかという事。
もう一つは、人生を全うする事に対して理解を示し、祝福してくれる家族や仲間が周りに居て、最後を暖かく見送ってくれる環境にあるかという事であろう。
しかし、このような環境は、自力で作ろうと思っても難しく殆どの人は作れない時代なのだ。
昨年、芥川賞を取った羽田氏のスクラップアンドビルドに描かれている高齢者とその家族の在り方は、高齢者が人としての尊厳を保ち暮らす事が、家族と共に暮らしていても難しい事なのだと思い知らされる内容だ。これが今の時代を象徴する高齢者社会の普通の家族の在り方である事にショックを覚えた。
家族と共に暮らしていても、高齢者が人としての尊厳を保ち普通に暮らす事が難しい時代なのだ。
家族の有難味は、人生の最後の見送りを祝福と共に担ってくれると言うのが幻想化してしまった現代において、死の質を高めるために、身内だとか他人だとか関係なく、幸福な死への理解者が必要である。
そのような命の終りに、良い人生だった事を思い起こさせ、人生の最後を演出してくれる理解者と出会えるか出会えないか、それが死の質を決める鍵なのかも知れない。
少なくとも終末ケアに携わる人達は、死の質についての理解者であろうが、残念ながら民間組織での終末ケア施設はこの国では皆無とは言わないまでも、それに等しい現状だ。
終末でなくても、死の質への理解者は誰にとっても必要である。実は一昨年、そんな人達との偶然にもご一緒にお仕事をさせて頂いていた!
次回へと続く!

2016.01.06
死の質について

正月の休みに一気に纏めてしまおうと思っていたレポート
このブログの中で、少しづつ綴っていく事にした。
仕事やNPO活動の中でいろんな人と出会い、教えて頂いた事を少しづつ書き下ろしてみる。
レポート1 ■死の質!
最近、仕事では毎年のように介護施設系の建築物を手がている。
それと納骨堂といった建物も幾つか手掛けるチャンスも頂いた。
私達の仕事は、プライベートも含め、どちらかと言えば人の死の瞬間からは遠い所に位置していて、直視することから出来るだけ自分を遠ざけてきたように思う。
ある任意団体組織の会議に呼ばれ、終末期で過ごす施設づくりでの意見交換会に参加させて頂いた時の事。
出席者の若い心臓外科の医師から、「人の死には質がある」と言う興味深い話を聞いた。
死んでしまえば、同じだから死に質がある等とは、それまでは考えた事も無かった。
しかし思い当たる節もある。随分前の事、相続税対策という事で共同住宅を建築中の時、その共同住宅の地主であるクライアントのお父様が建物の完成を待たず、病院でお亡くなりになられた事があった。多分70代後半だったと思う。
クライアントの話によるとお父様の身体はガンに侵され、とても弱っておられたが、頭は人一倍はっきりされていたらしく、亡くなる寸前までは、怖い!まだ死にたくないと言われていたと聞いた。
身体が壊れる前に脳が先に壊れないと死を迎えるのは、とても悲惨であると聞いた事を思い出した。
心臓疾患の患者さんは若い方が多く、生死に関わる大きな手術を受けた後、残された人生の時間がどれほどか様々な事例は有るものの、死と隣り合わせの人生を送られるらしい。
本人も家族も、死と直面した毎日は、1日でも長く生きるための死との戦いとなるらしい。3年後、5年後、若しくはそれ以上。生と死の戦いが続き、戦いが終わった時には、本人も家族も周囲にいた人みんなが、生死の戦いに敗れた無念さに号泣されるらしい。
そんな事例と反対に家族や仲間に祝福され、生を全うした満足感に溢れた幸福な死の迎え方が有るそうだ。
次回へと続く

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